白馬に乗って長野県へジャンプ

MENU
RSS

長野県(そば・リンゴ件)

明治4年には南部は今は岐阜県に入った飛騨国とともに筑摩県に、北部は中野県に分かれていましたが、中野で一揆がおこり県庁が長野に移りました。筑摩、長野両県合併の際には、筑摩県庁のあった松本と両県の中間にあたる上田が候補とされましたが、両県合同の前夜、筑摩県庁が放火で焼失し、しかもその犯人が上田の人だとされたことから長野が漁夫の利を占めました。

 

しかし、地理的に見れば、県の中心は松本か、あるいは上田あたりです。そこで、明治以来、長く上田への県庁移転運動が続けられ県議会での決議も行われました。今では、信州大学など文化や産業開発は県南中心にするということでなんとかバランスがとられている状況です。

 

ただ、長野県は水系からいっても三つに分かれています。南西部は木曽川、諏訪から飯田にかけての南東部は天竜川、北部は信濃川ですが、松本付近は支流の犀川、上田付近は千曲川で武田信玄と上杉謙信の合戦で知られる川中島付近で合流しています。

 

さらに、北西部の白馬周辺は新潟県上越地方へ流れる姫川流域。このようなことから、長野新幹線ができても長野や上田周辺以外の人は、相変わらず中央本線まわりであり、飯田の人にいたっては東京からでも豊橋から飯田線に乗りかえなければならず、大阪から北信地方へのスキー客は北陸線まわりでやってきます。

 

歴史的にいっても、古代には諏訪国が独立したり木曽川流域が美濃に編入されていたこともあります。信濃をひとまとめにするような大名がいたこともなく、江戸時代には最大の藩は松代(現長野市郊外)の真田10万石で、国宝の天守閣を持つ松本、「千曲川古城のほとり」という島崎藤村の詩で知られる小諸、真田幸村ゆかりの上田、桜で有名な高遠、諏訪湖に浮かぶ高島といった城は有名ですが、いずれも5万石内外の小藩でした。

 

長野県は日本のスイスといったイメージがありますが、スイスもまたドイツ語、フランス語、イタリア語の3つの言語を持ち、ライン、ローヌ、ドナウ、ポー川などの水系に分かれているのとよく似ています。

 

近代の長野県経済を支えたのは、いずれも涼しく乾燥した空気を活かしたもの。リンゴや生糸、蕎麦、高原野菜などの生産や、高野豆腐づくり、諏訪地方などの精密工業、軽井沢や上高地などの避暑地観光です。近年では雪とアルプスに似た地形を活かしたスキー客も経済を潤しています。

 

長野オリンピックは期待していたほど、もうひとつ盛り上がりませんでしたが、それでも国際的な知名度を飛躍的に上げたことは事実であり、これをどう活かすかで無理して大事業をやったかいがあるかが決まります。

 

天竜川流域では蜂の子、イナゴ、ザザムシといった昆虫類が珍味。県北の小布施は小林一茶や葛飾北斎が住んだ町としても有名ですが、栗羊羹など栗を使った菓子で知られています。

 

中山道沿いには奈良井宿、妻籠宿など宿場町が残っていますが、馬籠宿は『破戒』などで知られる島崎藤村の故郷であり『夜明け前』の舞台です。

 

長野市は善光寺の門前町として発展。極楽往生を願う庶民の信仰に支えられ年間600万人の参拝客を集めます。秘仏の阿弥陀三尊は、戦国時代には武田信玄によって甲斐に、ついで豊臣秀吉が京都の方広寺に移しましたが、秀吉の病がその祟りだといわれ長野に戻したといういわくを持っています。

 

県内の国宝建築は長野善光寺本堂のほか、松本城、大町仁科神明宮本殿、青木村大法寺三重塔、それに日本では珍しい上田安楽寺の八角三重塔と5件を数えます。

 

長野県民の県民性は真面目で理屈っぽく協調性も薄く、質実という表現がぴったり来る感じがすます。また、信濃毎日新聞はレベルの高い地方紙として評価されていますし、飯田や岡谷といった小さな都市でも日刊のタウン紙が成立しているのも長野県らしいところ。

 

室町時代に書かれて諸国の気風を簡潔に記し、武田信玄も愛読したという『人国記』には、「この国では武士の風は全国一であり、百姓・町人の風儀も健やかであること他国の及ぶところにない」とあり、信州人の名声を大いに高めましたが、これは著者が信濃の国の人だったということが要因です。